イラン国旗の意味や由来

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イラン国旗はイスラム教色のとても強い国旗です。

イラン国旗の中にはなんとイスラムの聖句が22個!

も配置されているんです。

しかも中央の紋章もイスラム教の神様の名前を意味しています。

また、旗比率も独自の旗比率を採用している珍しい国旗です。

果たしてどんな意味があるのか、一緒に見て行きましょう。

 

もくじ

イラン国旗の意味

イラン国旗の制定の由来

イランの由来

基礎情報(外務省HPより)

まとめ

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イラン国旗の意味

イラン国旗のデザイン

イラン国旗は横三色旗です。

上から緑・白・赤で分かれています。

緑色と赤色部分にはアッラー・アクバルの聖句が入っており、

中央には意匠が配置されています。

旗比率は4:7。

 

4:7は珍しい比率と言えるでしょう。

中央に意匠がある国旗は2:3が多いのですが…

4:7は1:1.75なので2:3(1:1.5)に近いとも言えます。

イラン国旗独自の比率とはいえ、やはり中央に意匠があるので

2:3に近い比率になるのでしょうか。

 

有名な国旗の中では…

ミャンマー国旗の旗比率の5:8が4:7に近い比率でしょうか。

後はアメリカ合衆国国旗の10:19とかも近いですね。

マイナー(?)なところではパラグアイ国旗などの3:5も近いと言えます。

 

イラン国旗の色について

イラン国旗は上から緑色、白色、赤色の横三色旗です。

 

緑色はイスラムの伝統色です。

マホメットのしていたターバンの色と言われています。

イスラム教国の国旗の色としては良く使われている色です。

 

白色は平和と永遠を示しています。

 

赤色は勇気を示しています。

 

緑色と白色部分にはアラビア文字が描かれています。

これはイスラム教の聖句です。

「アッラー・アクバル」(神は偉大なり)という文言であり…

クーフィー体というアラビア文字の旧い書体で記されています。

緑色部分に11回。

白色部分にも11回。

上下合わせて22回の繰り返しとなっています。

 

この22回という数はイラン革命の成就した日を示しているのです。

尚、イラン革命は西暦だと2月11日ですが…

イラン歴だと11月22日となります。

つまりイラン歴の方の日にちを採用している訳ですね。

 

イラン国旗の意匠について

イラン国旗の中央…

白色の部分に配置されている紋章について解説します。

イラン国旗の中央に配置されている紋章は、

剣と4つの三日月が組み合わされていると言われています。

中央に剣が、左右にそれぞれ2つづく三日月が…

ということでしょうか。

えぇ、言いたい事は解りますよ…?

三日月が4つ?

解り難く無いって…

私もそう思う!!

けどそうなっているらしいからしょうがないのです!

 

剣は力と不屈の精神を意味しています。

三日月はイスラム教で良く使われていますね。

ここではイスラム教の発展を祈願しているとのことです。

 

この紋章はアラビア文字でアッラーという意味にもなっています。

 

じゃあ中央の剣の上にあるWみたいなのは何だろう?

そうですね…当然の疑問ですね。

イラン国旗の説明には無いのですが…

イラン国旗のこの中央の紋章はイラン国章でもあります。

なのでイラン国章における意味を解説しておきます。

 

この剣の上のWはタシュディードと呼ばれるアラビア文字です。

タシュディードは子音が複数重なっている事を示しています。

これは剣の力が二重であるという意味になるのです。

 

力と不屈を現す(×2)剣!という事ですね。

また、この国章の形そのものはチューリップに似せているとか。

イランの地は、かつてはペルシャが栄えていました。

ペルシャの伝説では祖国の為に戦った兵士が戦死すると…

その場所に赤いチューリップが咲くというものがあったのです。

 

転じて現代でも赤いチューリップは勇気の象徴の意味を持つのです。

 

ご理解頂けましたか?

ここまで見て頂いてご理解頂けたと思いますが…

イラン国旗は2つの事を重視しています。

それはイスラム教と勇敢さですね。

 

イスラム教要素としては

緑色

聖句が22個

中央の紋章がアッラーを意味

4つの三日月がイスラムの発展

 

勇敢さ要素としては

赤色

剣×2

赤いチューリップ

 

となっています。

では、次にイラン国旗がどのようにして

今の形になったのかを見て行きましょう。

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次の章を読めば…

昔はライオンと太陽が配置された国旗だったのですが、何故ライオンと太陽が外されたのかも解るはずです。

 

イラン国旗の制定の由来

今現在、イラン・イスラム共和国(イランの正式名称です)のある場所はペルシア帝国が栄えていました。

アレクサンドロス大王にアケメネス朝は滅ぼされましたが

大王の死後、再びペルシア帝国(セレウコス朝)は再建されます。

ローマ帝国と軍事衝突をしつつも、ペルシア帝国(サーサーン朝)は健在でした。

 

7世紀に入り、イスラム勢力や東ローマ帝国との戦いに敗れたサーサーン朝は滅亡。

その後イスラム勢力の支配下になりますが、13世紀にはモンゴル帝国に征服されます。

 

モンゴル帝国が瓦解した後、ティムール朝、サファヴィー朝と興ります。

このサファヴィー朝がイスラム教のシーア派を国教としました。

これが現在のイランがイスラム教シーア派に傾注している要因と言われています。

 

サファヴィー朝の旗がこちらです。

緑色はおそらくイスラム教。

ライオンと太陽は皇帝を表していると思われます。

 

オスマン帝国との衝突で疲弊したサファヴィー朝は1736年に滅亡。

その後イランにはガージャール朝が興ります。

ガージャール朝はイギリスやロシア、フランスの利権争いに巻き込まれてしまうのです。

ガージャール朝は列強各国に不平等条約を締結させられることで国民は苦渋を舐めていました。

イラン人はこの状況をなんとかしようとしていたものの、上手く行っていませんでした。

 

ガージャール朝の旗がこちらです。

緑一色だったサファヴィー朝から現在のイラン国旗の配色に近い形になっています。

こうしてみるとガージャール朝の国旗が今のイラン国旗の原型に見えますね。

 

1905年、日露戦争で日本がロシアに勝利します。

イランでは、日本がロシアに勝てたのは議会制と憲法を持つ立憲国家としてのまとまりの強さが要因である、と受け取られました。

イラン人は国王に対して議会を開くように要請。

1906年、国王は議会を開設したのです。

この時、国旗もこのように変わります。

配色のバランスが良くなりましたね。

一番下の色がオレンジ色になっているのがちょっと気になります。

中央の皇帝を示すライオンと太陽が小さくなったのは…

議会設立により皇帝の力や権威が弱くなった、という印象を受けます。

 

しかし、五年後にはロシア帝国軍の直接介入により議会は解散させられます。

そして第一次世界大戦を迎えます。

この時イランは既にイギリスとロシアに分割統治されていました。

ここにオスマン帝国が侵攻してきます。

とまぁ無茶苦茶な状況下にあったイランですが…

 

1917年、ロシア帝国は崩壊。

レーニンが実権を握ります。

社会主義になったロシアはイランとの不平等条約を撤廃。

イランに保持していた既得権益の破棄等を打ち出します。

 

これを見てイギリスは単独支配をしようと1919年、英国・イラン協定を結びました。

これはイランがイギリスの保護国になる条約でした。

この協定にイラン人は激怒。

革命が起きます。

 

1925年、ガージャール朝は廃絶。

1926年、パフラヴィー朝が興ります。

パフラヴィー朝はクーデターを起こしたレザー・ハーンが創立しました。

パフラヴィー朝の旗はこちらです。

オレンジ色が赤色になりました。

赤色は憲法の発布を記念して憲法の発布を意味するものとして変更されました。

中央のライオン像はシャハンジャと呼ばれています。

シャハンジャとは王の中の王、という意味を持ちます。

ライオンの右手の剣はムハンマドの娘婿であるアリーに対する信仰と聖戦を象徴しています。

アリーはイスラム教シーア派の開祖でもあります。

 

レザー・パフラヴィーと改名したレザー・ハーンはイランの国力を増強してきました。

1935年にはペルシャからイランへと国号を変更しました。

そう、この時まではペルシャだったんですね。

イランというのはこの時から始まります。

 

さて、初代皇帝から二代目皇帝へと変わったのち、パフラヴィー朝は独裁色を強めて行きます。

1979年、イラン・イスラーム革命が起きます。

これによりパフラヴィー朝は倒れました。

イスラム共和制を採用したイラン・イスラーム共和国がここに樹立したのです。

 

1980年7月29日には現在の国旗が制定されたのです。

国旗は中央のライオンと太陽の紋章を今のものに変更した形ですね。

皇帝が居なくなったのでライオンと太陽が外されたのは当然と言えるでしょう。

ライオン像の持っていたシーア派の開祖を意味する剣が、今の国旗の紋章(国章)に継承されているのは興味深い処ではあります。

また、太陽に対するものとして三日月が4つ、というのも面白いですね。

まぁ三日月はイスラム教のシンボルでもあるので太陽に対して三日月を配置した!とは言い切れませんが…

偶然だったとしても面白いと思います。

 

イランの由来

そもそも何故ペルシアからイランに変えたのでしょう。

実は、元々イランの人々は自分たちの国をイラン、と呼んでいたのです。

西洋諸国がペルシアとして呼んでいただけなんですね。

これを1935年、イランと呼ぶように周知徹底したのが真相という訳です。

ではこのイランとはどういう意味なのかと言いますと…

サンスクリット語のアーリアに由来しています。

アーリアというのは高貴な人、という意味です。

このアーリア人の国、という意味で昔からイランと呼ばれていたのです。

 

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基礎情報(外務省HPより)

国名:イラン・イスラム共和国

建国年:1979年

国旗の制定:1980年7月29日

人口:8,000万人

首都:テヘラン

民族:ペルシャ人

言語:ペルシャ語、トルコ語、クルド語

宗教:イスラム教(主にシーア派)、他にキリスト教、ユダヤ教、ゾロアスター教

通貨:リアル

国歌:イラン・イスラム共和国国歌

時差:‐5.5時間

 

まとめ

・緑色はイスラム教

・白色は平和と永遠

・赤色は勇気

・中央の国章は力と不屈を現す剣と4つの三日月

・中央の国章はアッラーというアラビア文字の図案でもある

・緑色と赤色部分には11個ずつ、計22個の聖句が描かれている

・イランはつい最近まで帝国だった

・イランの帝国が終わった時に国旗も今のものとなった

・イランは昔からイランとイラン人に呼ばれていたが、西洋はペルシアと呼んでいた

 

以上です。

イラン国旗いかがだったでしょうか。

イランは長い間分割割譲されていましたが、国旗そのものの原型はかなり昔からあったようですね。

ガージャール朝の頃から既に三色の配色は視られていました。

また、王朝が交代しても大きく意匠が変わらなかったというのも面白いと思います。

 

更にイランを特色付けているのはイスラム教の中では少数派のシーア派が主流という点です。

他のイスラム教国はスンニ派が多いのです。

シーア派というのは開祖ムハンマドから4代目の指導者アリーの子孫のみを正当な指導者とみなす考え方のイスラム教です。

スンニ派は指導者には対してこだわりは有りません。

尚、イスラム教の教義そのものには根本的な違いは無いと言われています。

 

また、イランで使われている言語ですが…

イランではアラビア語ではなくペルシア語が使われています。

中東にありつつも孤立しがちなのはここら辺が理由なのかもしれません。

 

また、政教一致の国であり、イスラム教の教えを厳格に守っている国でもあります。

その為、公の場では男女が分けて生活するようになっています。

そのため少子高齢化がどんどん進んでいるとか…

 

因みに、隣国のイラクとの関係は現在はかなり改善されてきているとのことです。

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